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長谷川利行の女性像 
  長谷川利行の少女像や裸婦は、どれも一般的にきれいで上品な女性像(例えば、ラファエロみたいな)ではありません。だけどとても魅力的ですね。なぜそんなに私たちを魅了して止まないのか、私が感じたことを書かせていただきます。

    

 左上は晩年の作品でしょう、おそらくおしゃれな服装からカフェの女性がモデルだと思います。当時のカフェというのは喫茶店ではなく、今で言うキャバレーでしょうか、盟友の詩人、矢野文夫氏に連れられて長谷川も良く通った様です。きっとお気に入りの女給をホンの短い時間で描いた作品でしょう。
 右上の少女像、これは本当にハチャメチャな絵なんですけど、ちゃんと可愛い少女でしかも微笑している感じまで出ています。モデルとの親近感が感じられます。

    

 上の2点の裸婦、彼の絵を描く喜びが伝わってきます。うまく描こうとか上品に仕上げようとかそういう小細工は全くありません。どちらも力強い生命感が溢れています。

 どの絵も一見すると稚拙と言ってもいい絵です。子供の様な絵は次の長谷川のエピソードを思い出させます。
 壁に小学生の描いたクレヨンのスケッチが無数にピンで貼り付けてあった。
「これは、最高のお手本です。」と利行は言った。 (矢野文夫著 長谷川利行より)
  一方長谷川が優れた歌人であったことは周知の通りで、ニーチェを愛読し、また西欧の巨匠にことごとく通暁していたことも伝えられており、相当の教養人であったことも間違いありません。ですから長谷川は技術や研究を軽視していたわけではなく、ただそれが過ぎると作為、ほめられようとか技術を見せつけようとする欲につながり、絵を描くことの楽しさを失わせてしまうので、それを避けていたのでしょう。子供の絵を手本にするというのは、そのスピリットを手本にしたということだと思います。
 長谷川のことを考えると私はいつも良寛を思い起こすのですが、その良寛が最も嫌った「歌詠みの歌、料理人の料理、書家の書」に陥ってはいけないことを本能的に察していたのでしょう。 本物の芸術は、拍手を強要する様なものではいけない、思わず涙が出てくる様な、その前で合掌してしまう様なものでなくてはいけないと思います。

 これらの絵には作為が全くありません。あるのは長谷川の絵を描くことへの限りない喜びと、社会の底辺で一生懸命生きている人たちへの共感です。そういう思いが絵のタッチ、筆の運びに現れ、彼の絵に何とも言えない温かみを与えているのだと思います。
 長谷川ほど市井の女性の純朴な美しさを描き上げた作家はいないと思います。彼の筆により彼女らはヴィーナスや観音様になり、いつまでも私たちを魅了し続けていくでしょう。

2006/12/29






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