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マティスのコスプレ
 今、画廊にマティスのリトグラフ「チュールのスカートをはいたインド女性」があります。マティスのオダリスク連作は彼のリトグラフ作品のおそらく頂点をなすものですが、その中でも白眉の名品です。
 正直零細画廊の身には手張りで買う(客注ではなく在庫として買う)のは相当つらいのですが、下見会で現品を見た瞬間やられてしまい、歯を食いしばってパドルを上げて手に入れました。

 さてオダリスクの作品群はマティスを語る上で欠かせないものですから、様々な論評があります。


 「アングルに匹敵する分析的な緻密さでデッサンを立て直すことにあった。」
     (「マティス」新潮美術文庫より)

 「それは豪華な織物、女性の体が作り出す緊張感、オリエントの謎めいた神秘的な雰囲気などを白と黒のヴァリエーションだけで表現することのできる格好の題材であった。」
     (「マティス、その原点」展図録より メルシャン軽井沢美術館)

「オダリスクを描くのはヌードを描くためです。わざとらしくないヌードを描くことなんてできるでしょうか。でも私はモロッコでああいう女性達を実際に見たのです。だからフランスでも粉飾なしに彼女達を描くことができたのです。」
     (オダリスクについてのマティスの言葉)


 上の二つは美術書からの引用、三番目は画家本人の言葉です。おそらく美術展ではこういうキャプションが展示されることでしょう。
 だけどどうもしっくりこない、この作品から発する熱情(この画面から溢れ出る生命感、官能美はどうでしょう、むんむんしています)と評論家・学芸員の理論的な論評がマッチしてないと思いませんか? それこそ「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子)ですね。
 本人の言葉にしてもモロッコ行きは1912年でだいぶ前ですので、私には照れ隠しに聞こえます。

 これはマティスのコスプレなのです。若い女性にすけすけの衣装をまとわせてうれしくてしょうがないのでしょう。これを私がやると例えば写真を撮りまくってそれを眺めては一人悦に入るというあぶないおじさんになってしまうのですが、そこは巨匠マティス、自分の個人的な感動を作品として普遍化し至高の芸術へと仕上げてしまうのです。
 これは想像ですがマティスは描く前、衣装を取り出しては「ムフフフ・・・」と喜び、付けたモデルを見ては興奮しまくったのではないかと思います。

 だけどそこはマティス、興奮しているばかりではなく、用意周到さも忘れません。例えば、紙の選定、非常に薄い紙に刷られているのですが、これが不思議な透明感を与えています。チュールのすけすけ感は、「薄い紙 + リトグラフ」でなければこううまくは表現できません。ただタブローやデッサンを写したのではなく、リトグラフ独自の味わいを十二分に考えているのです。

2004/02/06






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